コラム
 

日本のお米とコシヒカリの関係

日本のお米とコシヒカリの関係

日本は今やお米の戦国時代です。

山形「つや姫」北海道「ゆめぴりか」熊本「森のくまさん」など、味や品質だけではなくネーミングにもこだわった新品種が日本各地でぞくぞくと登場しています。

一昔前のお米の三大ブランドと言えば、新潟「コシヒカリ」、宮城「ササニシキ」、秋田「あきたこまち」ですが、その中でも「コシヒカリ」ブランドは、確固たる地位を保っているように見えます。
新品種が台頭してきても、そのネームバリューが強いのはなぜでしょうか?
この記事では、日本のお米市場に重要なかかわりのあるコシヒカリの歴史について紹介したいと思います。

コシヒカリがブランドになるまでの道のり

「コシヒカリ」は日本の最大の作付け面積を誇り、今や全国各地、アメリカでも栽培されているほどの人気品種です。
粘りが強く、炊きあがりの美しいツヤと香りのバランスがとてもよいのが特徴です。

「コシヒカリ」の中でも「新潟魚沼産コシヒカリ」は別格と言われ、日本のお米収穫量の数%程度という稀少ブランドとされています。

新潟のお米がおいしいと言われる理由は、夏は暑すぎず日照時間も長く、冬は雪が多く土壌の微生物が活発で稲作に、特にコシヒカリに適した気候と風土のためと言われています。

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日本はずっとお米が不足していた

現代の日本では、おいしいお米がスーパーでもコンビニでもいつでも手に入りますが、実は日本のお米の歴史は長いのに、昔はなかなか食べられない高級品だったようです。

日本人が、日本食の代名詞であるお米を十分に食べられるようになったのは実は戦後と言われています。お米を食べる文化の長い歴史を考えると、つい最近のことなんですね!

稲作が始まったのは弥生時代ですが、当時は十分な収穫量がありませんでした。

続く奈良時代から中世の室町時代でも状況は変わりません。

戦乱のない江戸時代に入り、新田の開発が行われ、作付面積や収穫量が格段に増えたものの、人口が増加し米の値段も上がってしまいました。お百姓さんは半分を年貢で徴収され、庶民がお米を存分に食べられない苦しい時代が続きます。

明治時代になり、さらに大正時代に入り第一次世界大戦が起きると、米不足が深刻になり他国から輸入していたほどです。

昭和のNHK朝ドラ「おしん」(ご存じない年代の方は2013年上戸彩さん主演映画)の中に「大根めし」が登場しますが、おしんの家だけが特別に貧乏だったわけではないということです。

戦後の復興を支えた希望の星「コシヒカリ」

終戦間近の昭和19年、新潟県農業試験場の技師により初代の「コシヒカリ」が開発されました。しかし戦況が悪化し、開発は中断されてしまいます。

戦後、各地の試験場では、病気に強く収穫量の多い稲の開発競争が始まります。
初代コシヒカリは味が良いものの病気に弱かったため、脚光を浴びることはありませんでした。

そんな中、コシヒカリの育成は福井県に引き継がれます。
設立したばかりで開発材料の乏しかった福井県では、「捨てるものならほしかった」そうです。

福井県で数年にわたり開発が続けられ、収穫量が増えたものの、病気に弱いという欠点は改善できず、奨励品種には採用されず栽培には至りませんでした。

しかし「栽培方法で欠点は克服できる」として、新潟県と千葉県の奨励品種に採用されたのです。
コシヒカリは新潟で開発され、福井に引き継がれて育成され、再び新潟に戻ってきました。お互いの窮地をそれぞれの県が救い、コシヒカリは誕生したのです。

新潟の越前、越後の福井の共通文字から「越の国に光り輝く」という思いを込めて「コシヒカリ」と命名されました。まさに戦後の希望の星だったのですね。

長年の日本人の夢である「お米をお腹いっぱい食べたい」という情熱は、新潟のコシヒカリが全国に広がることによりかなえられましたのです。
今、私たちがお米を自由に選んで食べられるのは、先人たちの苦労のおかげなのです。

現在は飽食の時代と言われ、日本人がお米に困ることはなくなり、逆に米離れが進んでいます。
でも、お米は日本人にとって、切手はきれない大切な存在です。
あらためてお米のありがたさ、おいしさを見直してみませんか。

炊きたてのお米